ニックは絶対に駆使しな

ある企業が恋愛マッチングアプリを福利厚生の一つとして社員が利用できるように整備している。
お付き合いが始まり、いい線に行くと、デートの誘い方や告白タイミングをAIがサポートしてくれる。
今、出生率や結婚する人はどんどん落ち込んでいる。
時代の流れか。

それにしても、マッチングアプリ、面白い。
一昔前は、世話焼き人のような人が親戚や職場にいて、お見合いを薦めてきた。
今は、マッチングアプリに変わっただけ。
広い人材から忖度なしに選べるのかも知れないが、リアル社会での評判などが人づてに聞こえてこないから、ちょっと怖い。
だが、周りから太鼓判を押されたオススメの人だとしても結婚してみたら、あらまあ、なに?これ?
と落胆するケースも多々ある。

(ちなみに、一昨日、映画「マッチング」を観た。
予想外の展開で、居眠りするヒマがなかった)

昨夜、夫と、企業マッチングアプリのニュースをTVで一緒に見ていた。
わたしは、「面白いね」と、ニュースの最初と最後に言った。
夫は終始、無言。
全く目にも耳に入っていないと思う。
仮に認識していたとしても、変な感想を言って妻の逆鱗に触れるのは避けたいため、知らん顔を演じる、、、なんていうような高等テクニックは絶対に駆使しない。
めんどくさいタイプ。
正真正銘、アタマと目と耳を素通りしている。

今の人は、結婚したいと思わなくなったようだ。
片親で子供を育てるのは大変なので、結婚せずに子供を産む人も少なくなり出生率は低下する。
正確には結婚したいとは思うものの、結婚したいと思えるような相手がいない。
経済的に自立していたり、家事が出来たり、社会制度が整ったりサポートしてくれたりすると、何が何でも結婚に生活を託さなければならない状態は脱している。

すでに結婚してしまっている人(既婚)は、あえて現状をほじくらない。
火に油を注ぐような事態を招く可能性があるなら、そっとしておく。
今更、波風を立てても誰も喜ばない。
どうしても改善しなければ崩壊、破綻する場合は別として。

はないかと思うほどの

いつも一緒に運動をしている、体育会系仲間が一過性の病気になった。流行病。
で、運動の場に引っ張り出されなくなり、あまりにも退屈。
この酷暑の中、不要不急の外出は避けてください、とニュースの声機械臂微創前列腺癌根治手術
ウォーキングなど、とんでもない。
自宅でもエアコンをつけてください、と、キャスターの声。
今月の電気代に戦々恐々としている人は少なくないだろう。

さて、トップ画像。
退屈すぎて、戸棚から引っ張り出してきた。
姑の本。百人一首、漫画版。
すごく面白い。
でも、読むのは1日3首にしておこう。
著者は2人いて、1人はわたしより一歳、上。
子供向けに書いたところ、好評だったそうだ。
もう1人は、手塚治虫氏に指導を受けたという漫画担当で、わたしと同じ歳。
同級生が書いているようなノリ。
かなり優秀な同級生ではあるが磁力共振 價錢

もう一冊は、舅の本。橋のない川
昭和44年26刷、定価350円のハードカバー装本。
夫の実家で発見して以来、読もう読もうと思いながら手付かずになっていた。
持ち帰って来ていたのも、20年ぐらい前かも知れない。
紙の色はもはやキナリ、ベージュになっている。
まだ3ページしか読んでいない。
読む本を2冊、机の上に用意すると、なんだか安心する。

舅は文学全集をズラリ揃えていて、次女が学生時代、興味を抱いて何冊か、うちまで持ち帰ってきた。
それは、立派な装丁ではなく、紙が劣化してパラパラめくると粉粉になって散ってしまうのではないかと思うほどのもの。
紙は、耐久性が低い。
驚くべきことは、文学全集と舅が結びつかないこと。
舅は文学青年の片鱗もない。カケラもない。
見事、昇華したのだろう(と思いたい)。
晩年、NHK趣味の園芸」のテキストを見ると、それらしい好みが窺い知れる。
人間って、変わるものだ。

わたしの父は割合、書くことが好きだ。
文学より自作。
晩年は、時間の隙間を見つけて1人で映画を見に行っていた。
(生涯現役のため、オフタイムがとても少なかった)
わたしは父に似ているかも知れない。(文章を書く意味では)
兄も寄稿を頼まれると嫌いではなさそうだ。

父のこころに残る言葉。
「自分から自慢アナウンスしなくても、周りが自然に知る」
背伸びしたり見栄を張っても、いずれバレる。
逆に、何も言わなくても見ている人は見ている。
自慢したくて、言いたくてウズウズしていても、言わないほうがスマートということか紮肚修身

の活動経験がないと思

ブログ開設50周年記念、ぜひ、やりましょう。
その中にはブーツさんあたりも入っていて。
みんな、(歯が無くて)ふがふが、車椅子か、寝たり起きたり工料測量
わたしはほとんどブーツさんとは、やり取りをしたことがないけれど。
別のブロガーさん、、、ブログ村・年代別「60代」カテゴリーで一時期ご一緒した、赤いアイコンの方とは、とても長い。
わたしは当時50代だったが、気持ちとしては60代だったので「60代」カテゴリーに登録していた。
年齢詐称、サバ読み(ただし、若いほうにではなく、歳を取っているほうに)。
そのブロガーさんは「60代」カテゴリーにおられたが、やがて「70代」カテゴリーへと移られた。
もうじき「80代」カテゴリーに移行されると予想する。
裕さんより長いかも??
わたしは、ずーっと同じブログタイトルで愚直にブログを続けているが、10年ひと昔、いや、10年も1年もそう変わらない。
ブログの内容はほぼほぼ一緒で変わらない。
よくまあ飽きもせず。たいしたネタもなく天幕 帳篷
変化がないということは、成長も退化もないということにしておこう。


さて。
話は相変わらずころっと変わる。
わたしが娘家族とのイベント行動を軸として、生活が回っているというのに対し、
子供が独立した今では、家族がらみイベントはなく、何もすることがないというAさん。
(男親と息子家庭。女親と娘家庭。この関係性にも大きな違いがあるが)
女性は家族やご近所さんと密接に関わることがあるけれど、男性はそういうわけにはいかない、とAさんが言う。
仕事一本槍で、(ただし、仕事関係の人や地でアフター・ワークも過ごす)、家に居る時間が短い分、子供との関わりや、地縁を活かすほど、地域での活動経験がないと思われる。
子供はやがて独立するが、家庭のつながりは主に「食」「子育て」を担当していた母親との距離が近い。

仕事で家庭にいない、昔の父親は、影が薄い。
更にもっともっと昔の父親は、頑固親父、カミナリ親父で手に負えない迷你倉
今のシニアは、男女役割、ジェンダー意識の移行期、時代の移り変わり、狭間にある。
というか、意識は昔のまんまで、時代の推移には全く付いていけない。
女性は、喜んで時代の波を受け入れるが、男性は、嫌がる。
男性は仕事、女性は家庭。
この動かない絶対的固定役割を手放さない。
ではあるものの、家庭外で働いた経験のない女性の中には、女性が稼いで家庭経済を担うことを期待されると困る人もいるだろう。
しかしもうリタイアしたら、男性も女性も収入は年金などで、夫も妻も一緒くた合算になっている。

男性の意識は、昔のまま。オトコは家の外、オンナは家の中。
だが、介護、看護が必要になると、オトコだオンナだ、と、そんなことは言えなくなって来る。
元気な側と、サポートする側。
でも、老老介護。大変。

ログ村で袖振り合うご

なかなか面白いエッセイを発見した。
他の大手SNSで新人会員として日記を紹介されていた。
3つほど日記を読んでみたが、何を何を、、、どこが新人なのだ?!
鋭い文章、キレがありスマート。
リズム感と頭の良さ、、、、
あれは只者ではないと見た。
小学校の作文以来、作文を書いたのは久しぶりとのことだ。
が、アタマ隠して尻隠さず。
すっとぼけても、わかってしまう會計軟件

コメントは付けず、拍手を一つだけした。
あまり食い込んで行っても煙たがられると心外だし。

ずっと前に一度、キレを内に持ったブロガーさんと、ブログ村で袖振り合うご縁があった。
が、キレ過ぎて、わたしには毒だった。
読むのは研がれたキレキレの文章が好きだが、踏み込み過ぎると火傷する可能性がある人民币投资
なので、自分は昼行燈、暖簾に腕押しが、マイワールドとなっている。

前述の新人会員さんの書いておられた中で、
興味深い箇所があった。
その人は今、読書にハマっていて、中でも小説に夢中だそうだ。
どんどん影響を受けてインプットしているが、アウトプットできる才能は限られている、とのこと。
無から生み出すクリエイターはスゴイ、と。
これは、大変、納得した。
その例を世界的に有名な芸術家の言葉を引用して説明してあった。
教養がまたまた深い。
わたしは足元にも及ばないが(次元が違う)、別に競争しているわけでもないし、そんなことなどサラサラ考えていないにしても、
こちらが影響を受ける分にはどんどん目が覚める刺激あることを発信していただきたいものだ。

瞬く間に大勢の読者が現れることだろう。
ブックマークして次の投稿を探さなくても、多分、そのサイトでまた紹介されると想像する黑頭粉刺清除

暮らしを楽しむことで

男性と女性のおおまかな違いに、今朝、ふと気づいた。
例外や個人差はあると思うが。

女性は(わたしぐらいのリタイア年齢になると)、暮らしを楽しむことで日々、充実感を得る。
ものすごくお金がかかるわけではない。
何を食べようかな。
あ、そうだ。昨夜の残りもののカボチャ、ハムとチーズを乗せて焼こうか。
それとも、ミートソースを乗せようか。
一人で自分が食べる、本日のメニューを考える。
生協宅配の申し込み書も、ひとりでほっこり食べられる苺のかき氷、これを頼もう商務禮品
今日、帰宅してから食べられるように、宇治抹茶あんみつを解凍しておこう。
(食べることばかり)
何時間か後の楽しみがじわじわ押し寄せる。

好きな器や調度品、花や草木、香りの小物、、、脇役も勢揃い。
小さくなって着れなくなった衣類を手直ししたりして、気分を一新するとまた着れる日が来る。
誰に見せるわけでもなく、自分を楽しませてくれるモノ。
自分のこころの中を表現する絵も描いてみたい。
そう、知人Aに言うと、絵画教室に通わないとね、と反応。
べつに習いたいわけではない。人に見せたいわけではない。
発表会や展覧会に出したいわけではない展館製作
自分独自の表現をしたい。
溢れるままにアウトプットをしたい。
だが、その知人Aは基本から習う路線を譲らない。
二人の話は平行線。
次第に語気を強めて行くわたしに、知人Aはヘキヘキ。
「アタマが痛くなってきた」と一言。
で、その話はお開き。
人それぞれ好みの問題で、建設的ではない話に必要以上に熱くなり、わたしも反省した。

実はこの知人A、、、アタマが柔らかそうでいいなあ、と、第一印象を受けた、、、が、カチンコチンだった。
見誤った。
まあそういうこともある债券市场

みの少ない平凡淡々コース

自分のファミリーヒストリー的なものを遡ると、何が見える?
目を過去にうんとスライドして凝らしてみる會計軟件

んーー。
母方は、農民かなと。
父方は、プラス商人系かなと。あと、プラスα。

子供たちならルーツとして、母方(わたし)は主に農民系だが、父方(夫)は主に農民系ではない(と思う)。
父方(夫)は、商人系。
父方祖父は、商人系。
父方祖母も、商人系。(後に役人系も)
商人系、まいどー、の世界。

スポーツ選手や芸能、全くゼロ。
地元の産物を生産、販売。
松下さん(パナソニック)のように、何もないところから機械製品を生み出して販売はしない。できない。
大工さんのように、専門的な技能、手に職はない優秀人才入境計劃
昔の暮らしの多くがそうであったように、自然の恵みを生かし、育て、自給自足したり、税納したり、加工、販売したり。
昔は電力もないので、飛行機はもちろん電車もない陸路や海路、水路で運輸。
伊勢参りは人生最大のイベント。
転居も転職もせず、ずーーーっと遥か昔から同じ地で同じ暮らしを営んでいたようだ。
ある意味、幸せだと思う。
大きな富を狙い一攫千金できないが、大きく失うこともない、浮き沈みの少ない平凡淡々コース。
生活が激変するとしたら、大黒柱、労働力を失った場合。
福祉も整っていないし、女性の地位も低いから、今では考えられないような展開があっただろう。
どうやって子供を育てる?

枝分かれして遠隔地に出て行った人もいる。
枝分かれした後の地で種が落ち実がなり、やがてその地に根を張る場合もあるが、定着せずに終わることもある。
今は、住まいも職業も選択の自由が保障されている。
だが、選択できない事情があることもある。
色々だ。
誰しも、より良い生活を目指して努力、向上していくのが理想ではある香港人移民加拿大


平和はありがたい。
平和は、とてつもなく幸せをもたらしてくれる。
平和を奪う権利は誰にもない。
だが、不条理な出来事がまかり通る現実。
家を追われて避難せざるを得ない人々の姿をニュースで見て、深い悲しみに覆われる。

自分のルーツを掘り下げて書こうかと思ったが、筆が止まる。
悲しい紛争が繰り返される地もある。
やっと手に入れた安泰も揺らぎを見せる。
先人たちが長い時間をかけて生きてきた誇りを受け継ぎ持ち続ける、それは強い力となる。
その力を他者が強制的に破壊することは出来ない。

り興味のない路線

前回訪れたパリのブログ記事よりも、今回のほうが、断然、アクセス数がガタ落ちだ。
というか、日によって、アクセスのアップダウンが著しい。
面白くないんだろう毛囊角化症治療
いつものボヤキは読めても、旅、しかも、一般の人はあまり興味のない路線。
第一、旅とは言いがたい。
受け入れる気にはなれないのだろう。
共鳴、賛同の外側。
なんとなく、わからないでもない。

数字は正直かも知れない。

第一、パリって?
私の年齢と合わない。不適合。しっくりこない。
パリひとり旅なんて、ごろっごろっといる。平凡すぎて、恥ずかしくて、人に言えない。
堂々とブログに恥ずかしげもなく、凡庸さを露呈、表しているが。
人間は矛盾する生きものなので、それはそれでよい。はい。開き直りも大事。

しかも、「パリひとり旅」とはしゃぐのは、大概は若い女性。娘世代。
わたしは、若い頃、果たせなかった夢を今、実現しようとしているのか脫毛

違う。
別にそんな夢を抱いていたわけではない。
たいして興味もなかった。
(ひとり旅の初心者コースには最適かと、パリを選んだ経緯がある)


この年になって、なにを今ごろ、いまさら、何を?
もうとっくに、消化して、はい、次、行きましょう!という、爽やか世代のはず。
青臭くて、甘っちょろけて、自分でも気持ち悪い。
いい年して、みっともない。
さらっと、カッコよく、風に吹かれて、みたいなほうが、さっぱりして、あっさりして、薄味でいい。


ワンレン、ボデコン、肩パットがドカンと入った、アメリカンフットボールのユニフォームみたいな、
あるいは、聖子ちゃんカット(聖子ちゃん自身が、今はロングヘアなのに証婚場地)
時代が過ぎているのに、まだ自分の立っている位置は止まっているような。

というか、ブログ、やめようかしら。
ふと、そういう気になった。


いや、ブログは自分を見つめるために書いている。自分のために書いている。
究極の自己ちゅーツールである。
ブログに振り回されるのは、本末転倒。
そして、ブログと、わたしは、一体化している部分はあるが、決してすべてではない。
わたし>ブログ
であり、
わたし=ブログ
ではない。